2011年10月14日

見捨てること、見捨てられること、そして忘れられてしまうこと

 社会がゆっくりと音も立てずに崩れていく
 人知れず南極の氷がとけていくように
 福島にいると、それが手に取るようにわかる。

 当初は、「巨象」と戦うようなつもりで始めたブログであるが、すっかり意気消沈して先が続かなくなっている。

 書く材料も、書きたいことも山ほどあるのだが、書くことを躊躇させる材料が多すぎる。人目を気にするタイプではない方だと思うが、福島の現実は厳しすぎて、つい読み手の気持ちを忖度し、考え込んでしまう。

 職場から帰って、明かりを落とした部屋で、食卓の白熱灯の下、ひとりで不健康な夜食を口にしながら「いま、妻や子どもはどうしているかな…」「どうしてこんなことになってしまったのか…」などと由のないことを考えている人を想像してみる。

 家のローンもあるし、いま以上に条件のましな職にはありつけそうにない。ならば家族を養っていくにはここで頑張るしかない。妻子とて、福島が嫌で出て行ったんじゃない。彼らもまた辛いだろう。それにしても、こんな生活がいつまで続くのだろう…。

 そんな、侘びしい同世代の男たちを想像すると、言葉を失ってしまう。

 私たち「はだしのゲン」世代は、放射能の恐ろしさを身体化している。おそらく福島の現状を楽観している人も多くはないだろう。しかし、だからといってどうしろと言うのか。明日も定時に会社は始まるし、この現実をどうしようもない。もちろん、個別には心配してくれる人もいるし、手弁当で除染に駆けつけてくれる仲間もいる。しかし、全体としては福島は見捨てられている。見殺しにされているといってもよい。

 7月19日の「避難の権利」の確立を求める対政府交渉の場で「避難されるのは自己の判断に基づき、していただいて結構だと思います」という言葉を、その場で聞いた。一生忘れることのできない言葉だ。
http://www.youtube.com/watch?v=cq1APhZSJAI

 この衝撃は大きかった。日本政府は「避難するならご自由に」という発言をするような人物(佐藤暁氏)を原子力災害現地対策本部の室長として送り込んでくるのか、と。このときに私の中で何かが変わってしまった。

 朝日新聞とテレビ朝日系放送局が電話で行った被災3県世論調査によれば、福島県では回答者のうち34%が移住したいと答えている(朝日新聞9月10日付朝刊)。その比率は、中学生以下の子どもがいる家庭では51%になる。
http://www.asahi.com/national/update/0909/TKY201109090610.html

 朝日新聞デジタルには元になるデータが載っている。そこでは、「移住したいと思わない」と答えた人に、その理由を聞いているが、「放射能の危険をそれほど感じていないから」という回答は18%で、「仕事を見つけるのか難しいから」が12%、「住み慣れた地域を離れたくないから」が59%であった。避難の際の基準となる「年間20ミリシーベルト」には過半数が「厳しくするべきだ」と答えている。

 助けを求める悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。

 福島第一原発の話題になると、いつも疫学の統計や物理学の話になる。そこには「人間」が出てこない。それが不満だ。嘆き、絶望している人々の姿が見えない。いつもと同じ日常を送るしかない人々が、いったいどんな思いで日々暮らしているかも見えない。

 もちろん「放射能のことなど気にしていない」という人もいる。しかし、だったらヒステリックにそう答える必要はないだろう。行間にはストレス過多が溢れ、殺伐とした空気が流れる。

 私とて、福島が見殺しにされている現実を受け入れるには時間がかかった。行政に期待をもった時期もあった。しかし、現状において、どうやらそれは無駄であるらしい。行政の対応を待っていても被曝が進行するだけだ。現地にいて、自分の目でものを見て、自分の頭で考えれば、現状を楽観する材料はほとんど見つからない。そして、少なからぬ人々が避難を望んでいる現実がある。現実に即して、住民本位で考えることができないなら、「地域主権」などという言葉を易々と語って欲しくない。

 「失うものが多い」つまり、既得権をもっている人ほど、福島の危機を隠蔽する傾向にある。現状を変えることに伴うデメリットが多いからだ。こういう人は概して「科学的」粉飾や屁理屈が得意だから手に負えない。政府は(地方政府まで含めて)目先の出費を節約した気になっているのであろうが、もっと大きな、大切な何かを失っていることに気づいた方がよい。



 後期の授業が始まった。学内の除染もほとんど進んでいないというのに。大学で地方行政を学生に語りながら、私自身は地方行政に対する不信を深めている。苦しい。それでも、行政が人々の不幸を分け合っていた、懐かしい時代の思い出を語ることくらいはできるだろうか。そして、国家予算何年分もの借金を抱えて、焼け野原から再出発した日々を思い出すことくらいは…。


posted by あるじ at 10:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月17日

「放射線測定」考

 6月に、福島市の某所で毎時150マイクロ・シーベルトというホットスポットがあることをフジテレビのニュースJAPANが報じた(実は、このホットスポットは私が発見したものだ)。
http://www.youtube.com/watch?v=DRehttRV3ao 
(1分10秒目あたり参照)
 もちろん、地表を測っているから高い数値が出るわけであり、これに対して異論を唱えられることは多い。地上1メートルを計測しろというわけである。

 「正確な計測」「統一した基準」という議論は有力である。

 文部科学省に報告される全国46都道府県(福島県を除く)の放射線量データが、7月26日発表分から地上1メートルのものに「統一」されたという。
http://mainichi.jp/select/science/news/20110727k0000m040105000c.html
 どこかの大学の副学長も、正確な計器によって正しく測定された数値でないものは公表すべきでないと発言している(安価な測定器は信頼できないという意味らしいが)。

 経済産業省資源エネルギー庁は、「インターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する」という目的で、「原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)」を一般競争入札に付している(すでに結果も出ているが、ここでは7000万円で東京都中央区の大手広告代理店が落札ということだけ記載しておく)。
http://www.enecho.meti.go.jp/info/tender/tenddata/1106/110624b/110624b.htm
(とくに、末尾「入札説明書等はこちらからダウンロードして下さい」の(3)仕様書を参照のこと)

 「正確な計測」「統一した基準」という「正論」が与える効果は、福島の人々が各自の問題意識で行う線量計測ととりわけその公表を萎縮させ、政府の公式発表に従わせるということにある。なけなしの預金をはたいて買った線量計も、「基準を満たさない不正確な計器」というわけである。

 しかし、そのような発想は「客観性の病い」であって、無意味とはいわないまでも、現実を知る上ではむしろ「有害」ではないかとさえ思う。私たちは、どこに放射線源があるかを知っている。地上に降り積もった放射性物質が放射線を発しているということである。であれば、その分布がどうなっているかを調べるためには、地表を測るのが定石である。

 人々が生活する上で、マイクロ・ホットスポットを避けることが重要で、そのためにはそれがどこにあるかを発見する必要がある。「地上1メートルで統一」とか「△メートルおきのメッシュで測定」といった機械的な発想は、作業を妨げる「効果」しかもたない。そもそも目指しているものが違う、と言い換えてもよいだろう。嘘だと思うなら、地上1メートルで計測してマイクロ・ホットスポットを発見できるか試してみればよい。

 また、よく「高い数値をそこだけ取り出して発表している」というご批判を受ける。要するに、誇張し、あるいは事実を歪曲して伝えているとでも言いたいのであろう。私たちの測定チームは計測したすべての地点を測定した機器の名称や測定方法も含め公表しているので、線量の高い地点だけを発表しているというのは誤解であるが、そのことをふまえてなお書くならば、人々が暮らしていく上では「線量の高い地点がどこにあるか」ということが決定的に重要な情報なのである。極言すれば、線量の低い地点に注意を喚起する必要はない。福島市内に驚くべき高い放射線量を示す区域があるということそれ自体が重要な情報なのである。

 そのような問題意識で、「地上1メートルで放射線測定」という現実を眺めると、むしろ「何のためにそのような方法を採用しているのか?」という疑問が湧く。

 「平時」における測定方法で「非常時」における測定を続け、それへの「統一」を求め、「正確な数値でなければ公表すべきでない」とまでいう。福島の人々が自分たちの健康や生活を守ろうとして行っている活動を敵視し、いったい何を守ろうとしているのか?


参考:市民放射能測定所
http://www.crms-jpn.com/mrdatafoodcat/

posted by あるじ at 00:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月16日

矛盾の体系

 5月以来、京都精華大の山田國廣さん、細川弘明さん、同志社大の和田喜彦さん、そして福島の住民の方々、福島大学の同僚らと除染作業をしていることはすでに書いた。もとより私は除染の専門家ではないし、放射線も怖い。しかも、体力も気力もないので、どちらかといえば戦力というよりは足手まといに近い。

 とはいっても、現状を放置していては住民の被曝が進むだけである。国も県も避難を助けないし、大学も学生を集めて授業をしている。このような現実がある以上、そして、いくらその現実に異を唱えてもそれを変える力がない以上、被曝を減らすための努力をするしかない。その一つが除染である。

 現状に不安を持っていない人に除染を期待しても無駄である。必要がないと思っているのだから当然だろう。結局、不安を感じる人ばかりが、今そこにある危険を取り除くために、除染に加わっている。そこにいつも矛盾を感じる。

 さて、除染作業をすればするほどわかってきたのは、余計な被曝を避けるためには、やはり可能な人から避難するしかないということである。

 まず、実際の放射線量は発表されているほど低くないし、また、降り注いだ放射性物質の核種すら発表されていないからである。さらに、除染の効果には限界があるためであり、何よりも政府が福島の人々の命や健康を守ろうとしないためである。これに、原子炉がいつまた新たな問題を起こすかもしれないという危惧が加われば、さきのような感想を持つのも仕方がないという気分になる。「放射線の計測」や「核種問題」「政府の対応」については、別の項を立てることにして、ここでは除染についてだけ述べる。

 除染をすれば、その限りで放射線の数値は下がる。しかし、周囲からのガンマ線の影響もあって一定の数値以下にはならない。雨が降れば、余所の放射性物質が流入して元の木阿弥になることもある。だから、誤解を恐れずにいえば、大規模に除染に取り組まない限り、全体としてみれば思ったほどの効果はないといえる。しかも、それぞれの作業はかなりの時間と労力そして財力を必要とする。ときとして、砂漠に水を撒いているような気分になる。これをやりきろうと思えば、強靱な精神力・忍耐をもって臨むほかない。一市民やグループの能力の限界を超えている。

 一部のマスコミは、高圧洗浄の効果を吹聴している。福島市内のとある学校の屋上で、毎時35マイクロ・シーベルトから毎時1.9マイクロ・シーベルトに下がった(地上1センチで測定)と報じられている。私たちの除染グループは、まさにその学校の排水溝で50〜70マイクロ・シーベルトのホットスポットが(新たに)形成されていることを放射線測定の結果、発見した。恐れていたとおりの結果が出たということである。水で流したところで、放射性物質が消えてなくなるわけではない。水が下水道に確実に流れ、処理場でトラップできるという条件がない限り、高圧洗浄は、上記のように放射性物質を移動させ、新たなマイクロ・ホットスポットを作ることにつながる。

 たしかに、水を使っての「除染」は簡単である。穴を掘って埋めなくてもよいし、ほかの道具を買う必要もない。そして何より時間がかからない。だから、「水を使えば楽なのに」という誘惑には毎回駆られる。

 結局、除染作業は「矛盾の体系」である。

 現実的に考えれば、今後、福島県内の除染を大規模に進めようとすれば、洗浄した水やそれを含んだ汚泥をバキュームで吸う方法でしか不可能ではないか、と思う。これは、一緒に除染を続け、福島グループで一番熱心に取り組んでいる深田和秀さんの意見でもある。ただし、そのためには、汚泥から放射性物質を分離させる技術が確立する必要がある。でないと、除染にともなって発生する膨大な量の水や汚泥を管理しきれないからである。しかし、これが簡単にできるなら、汚染水数千トンの処理が新聞のネタになるはずもなく、放射性物質を含んだ汚泥や水の管理は難しい。これを管理しきれなければ、先述のように放射性物質を拡散させることになる。東大アイソトープセンターの児玉龍彦所長が指摘するように、最前線の技術を投入してこの問題を解決できないものであろうか。

 別の問題として、放射性物質の一時保管場所の確保がある。保管場所が確保されないから除染が進まないということにもつながる。しかし、誰しも自分の家の近くにそのようなものを作られては困るから、保管場所の設置は困難を極める。必要だということはわかったとしても、近所にそれを受け入れるというのは別問題である。しかも、「一時」とはいつまでか?これまでの対応を見ていると、その期間がずるずると延びることは容易に想像できる。「原発事故に加えて、その汚染物質の受け入れまで住民に期待するのか?」と言われれば、返す言葉もない。しかし、この合意の難しい問題の解決も、福島の人々に課せられているのが悲しい現実である。

 汚染物質を拡散すべきでないことは、頭ではわかっていても、納得するのは難しい。なぜ福島だけがその問題を引き受けなければならないのか。しかも、福島の人々は、問題を引き起こした原発の電気を使っていたわけでもない。

 結局、いつも同じ結論に達する。

 何かおかしくないか?



posted by あるじ at 22:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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