2011年04月17日

子どもたちを守れ

 4月10日に、文部科学省が児童生徒の年間被曝許容量を20ミリ・シーベルトとして算定する方針であると報じられた。
 思い起こされるのは、3月15日に原発作業員の被曝許容量を100ミリ・シーベルトから250ミリ・シーベルトに引き上げたときのことである。この変更は、作業員の放射線への耐性が上がったために行われたわけではもちろんない。政府が違法な作業を強制することはできないため、適法に作業を命ずるためには、基準の方を変える必要があったということである。とすれば、この変更が「作業員」と「政府」の、どちらを守るためのものであったかは自ずと明らかであろう。
 福島県内の小中高校では、多くの父母たちの危惧をよそに、校庭の放射線量測定に先だって入学式・始業式を行い、授業を再開した。授業を開始した以上、それが正当な判断であったことが示される必要がある。今回の動きはそれに対応するものであろうと考えられる。
 このように、「基準」なるものは、残念ながら、現実から逆算して設定され、現状を追認していくものだというのが実態である。そのことは、野菜の汚染残留量基準の引き上げなどをみても明らかであろう。そもそも、事態の進行とともに緩和されるなら、何のための基準なのか。この期に及んで、「基準を守れば安全である」などと考えるのは、お人好しであるだけでなく愚かではないか。
 現時点で明らかなのは、地震をコントロールすることも、原発をコントロールすることもできていない、ということである。この一ヶ月で震度4以上の余震だけで100回以上続き、信じたくはないが、今後もM8級の地震がさきの震源域の東側で発生する可能性が高いと予測されている。他方で、未だ原発をコントロールすることにも成功していない。壊れた原子炉は日々、放射線を大気中や海中に放出し続け、収束のめども立っていない。
 「用心するに越したことはない」というならわかる。しかし、テレビでは連日、専門家なる人たちが「安全である」を繰り返している。マスクもせずに街中を歩く子どもも多い。ここまでくると、犯罪ではないかとさえ思う。福島の子どもたちは実験用モルモットではない。
 仕事など事情があって福島の地を離れられない親もいよう。また、愛する郷土を見捨てられないということもある。しかし、こうした「個人の事情」や「郷土愛」も、冷静に考えれば、原発からの放射線が安全かどうかとは何の関係もない。
 各家庭の状況に勘案しながら、学童の集団疎開でも個別疎開でも考えた方がよいのではないか、と私は思う。もちろん、「大げさ」とか「コストがかかりすぎる」などの反応が出るであろうことは予想できる。「家族と離れるストレスの方が有害」と説明する向きもあろう。しかし、すでにベストな選択などありえない以上、どちらを犠牲にする方が「まし」かを考えるほかない。つまり、求められているのは、何を最優先させどのような対応をとるか、を決定することであって、「できない」あるいは「やらない」理由を探すことではない。
posted by あるじ at 12:08| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

原発事故をめぐって〜権力的な物言い

原発事故や放射線の話を書こうとしても、素人同然だから、専門的なことは書けない。

しかも、ラジオでは(テレビでも?)専門家といわれる人が「正確な知識があれば、放射能は安全」などと繰り返し、言外に「素人は黙っていろ」とプレッシャーをかける。

しかし、「正確な知識」などというものがあると仮定しても、であれば、なぜ今回のような事態が起こるのか、ちゃんと教えてもらっていないような気がする。

そもそも、現在、福島第一原発で何が起こっているのか、よくわからない。

意図的に、だと思うが、断片的な情報しか発表されない。とはいえ、「状況証拠」を集めて、巨象に立ち向かってみたい。断片的な情報だけ集めても、事態がそうとう深刻であることだけは明らかなのだから。
posted by あるじ at 11:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

はじめに

 ブログをはじめるには、かなりの決心が必要だった。これまで、読まれない論文なら何本か書いたが、その気になれば誰でも読むことのできる場所に書くのは、なかなかしんどい。いろんな読み手を想定し書き方を考えていると、それだけでうんざりして先に進めなくなる。
 ただ、そういっていると何もできなくなるから、思いつくままに書くことにした。
posted by あるじ at 11:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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