2011年05月25日

もしも、あのとき…

 学長宛に「意見と要望」を送って以降、先方からは何の連絡もない。私たちは、学長以下執行部が対話姿勢を見せたことを高く評価したが、少々リップサービスが過ぎたようだ。学内の様子も相変わらずで、世界に向けてキャンパスの様子が放映されたとしても、ここが、かの福島だとは思わないであろう。危機感も放射線と同様、目に見えないからだと思いたい。ともあれ、ここしばらくが正念場だと思う。

 そうは言ってみたが、原発事故で、心身ともに疲れ果ててしまっているし、新しいことに向き合う気力も湧いてこない。いろんな計画が白紙になり、人生を滅茶滅茶にされた、というのが正直な気持ちである。


 今でも後悔していることがある。ある同僚のパートナーは、福島第一原発3号機で実施されることになったプルサーマルに反対して、暑い夏の日も、雪降る冬の日も県庁前に座り込んでいた。仕事柄、県庁に行くことの多かった私は、遠目に眺めながら、それに加わることはなかった。だから、私は心から自分が「被害者」であると公言できない後ろめたさがある。たまたま、福島原発40周年の節目に、「原発を廃炉に」という集会が準備されていた。彼女はその集会の主催者だった。しかし、震災と原発事故のため、3月26日に予定されていたその集会が実施されることはなかった。

 3月末、福島県内の小中学校の授業再開予定日が報じられた。そのとき、線量計をもって県内の小中学校の放射線量を測定するために立ち上がった人がいた。自らが集めた測定値を突き付けて、授業再開の延期を申し入れたのである。そのときも、家族を県外に避難させていた私は、その活動に加わることに躊躇した。おそらく「偽善だ」と言われることを直感的に避けたのだと思う。冷静に考えれば、家族を避難させることと、学校の再開延期はまったく矛盾する行動ではないが、それでも他の人の目を気にしたのである。矢面に立つのはしんどい。

 その後、1ヶ月ほどして、大学の授業再開が日程に上った。「小中高校が授業しているのに、大学が始めないなどということは理由が立たない」というのが、おおかたの風向きであったように思う。昔、高校時代に聞いたマルティン・ニーメラーの言葉を思い出した。気がついたときには遅かったのである。

 かの同僚夫妻の娘と、先頭切って線量を計測した人の息子と、私の息子は、同じ保育園の園児であった。不思議な縁である。



フランスから届いた今日のニュース(なぜかオーストラリアから)
http://www.news.com.au/breaking-news/watchdog-warns-about-fukushima-plant/story-e6frfku0-1226062264646#ixzz1NHFMRGMu
(こちらは、The Times of India)
http://timesofindia.indiatimes.com/world/rest-of-world/70000-more-should-evacuate-after-Fukushima-Watchdog/articleshow/8556684.cms

NHKによる別のニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/genpatsu-fukushima/20110524/1930_saiaku.html
posted by あるじ at 00:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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