2011年07月09日

見知らぬあなたに

 「刑務所をみればその国の文明度がわかる」といったのは誰であったか。

 福島の現状に引き寄せれば、「原発の作業員をみればその国の文明度がわかる」と言い換えることができるかもしれない。単にレトリックの問題ではなく、処遇の上で、福島第一原発の作業員の方が、受刑者よりもはるかに危険で、非人間的な扱いや使役を受けていることは、ほぼ間違いない。冷却作業の行き詰まりと無関係ではないと思われるが、最近、原発作業員のニュースがすっかり減ってしまった。「原発が安全に冷温停止する」という重大事項の鍵は、現場の働きにかかっているにもかかわらず、である。

 当初の情報では、1日2食(レトルト食品とクラッカー20枚)、防護服のまま狭いコンクリートの上で仮眠、風呂にも入れず、いびきがうるさくて熟睡できないというような話であった。しかも、作業員の大半は震災の被害者でもあるという。過度なストレスと、過酷な作業で衰弱しきった作業員の様子が伝えられた。
http://www.youtube.com/watch?v=8VvYHCqb5aM
http://www.youtube.com/watch?v=sWyqsOcDTrM
http://www.youtube.com/watch?v=Y0449gF8_jc
http://www.youtube.com/watch?v=vtmdTIE7z9Y

 その後、これはどのように改善されているのだろうか。被曝線量が高く、250mSvに引き上げられた限度量でさえもオーバーし、「戦線離脱」する作業員も増えてきたようだ。9人目までは数えていたが、これも現在はどうなっているのか。緊急時には被曝限度を引き上げるという政権である。どこまでも、現場だけの、限定された話とされるのであろうか。

 西日本に住む人にとって、3月11日の震災は、別世界の話だろう。しかし、多くの人の生活は、福島の地と直結している。計画停電は西日本にはほとんど影響を及ぼさないであろうが、原発事故の影響は、電気とは別のところにも深刻な影響を与えている。

 原発事故からしばらくして、日本中の建築現場にユニットバスやエコキュート(ヒートポンプ型電気給湯器)が届かなくなった。原発から20〜30キロ圏に排水トラップ(M社)や減圧弁(D社)の国内シェア90%あるいはそれ以上の工場があったためである。
 一般に、福島県に「工業県」のイメージはないと思われるが、福島県の工業製品の出荷高は、宮城県を凌いで、東北地方第1位である。しかも、今回の、排水トラップや減圧弁のように、国内シェア90%の工場がそこにあったということは、メーカーは違っても同じ工場の、同じ(ような)部品を使ってユニットバスやエコキュートが作られていることを意味する。メーカーを問わず製品の供給が止まったゆえんである。その結果、仮設住宅を建てなければならない段階で、風呂が作れないという、矛盾した事態も発生した。西日本の建築現場からは「なぜウチの現場に風呂が届かないのか」と、各地の営業所にクレームの電話が殺到したと聞く。地震の揺れすら感じない地域の人に、「地震のため」と説明しても、理解を得るのは難しいだろう。

 3月末ころから、タバコの品薄が続き、4月半ばには店頭から姿を消した。これは、全国に6カ所あるJTの工場のうち、福島県の郡山工場と栃木県の宇都宮工場が被災したためである。現在は、出荷が再開され、店頭でその姿を見るようになったが、葉タバコの一大産地は福島原発の西側に広がる地域(田村郡を中心とする)にあり、原材料の調達を考えれば品薄状態の長期化が予想される。郡山には専売公社時代に重要な事務所が置かれたいたが、その前身は三春町にあった。三春の事務所は東北6県(の葉タバコ)を統括する東日本の中心的機能を担っていた。

 福島県が生産の重点を担っている物産はほかにも多いが、そのことは、東京の電気にとどまらず、全国の人々の生活に福島県が大きく関わっていることを意味する。遠い福島で原発事故が起こると、電気が不足し、ユニットバスが届かず、店頭からタバコが消える。そういう関係を、私たちの住むこの社会は、すでに作ってしまっている。だから、「福島の問題」は福島の問題にとどまらない意味を持つのである。全国のそれぞれの地域が、互いに、想像以上に深く関わりあっているという現実は、政府がいくら今回の原発事故を「福島内部の局限された地域の問題」に矮小化しようとしても、中長期的には、問題の広がりを自覚させずにはおかないのである。

 だから、私たちが、全国の人に「福島の現実を自分たちの問題として理解してほしい」と願うのと同じように、福島に住む私たちも、原発の作業員がどのような苦労をしながら日々格闘しているかについて想像力を働かせよう。そうすれば、「作業員」などという一般名詞ではなく、彼らもまた「一人の子煩悩なパパ」であったり、「無口で実直な職人気質の親父」であったり、生身の、一人の人間としてのイメージがわいてくるであろう。そのときに、劣悪な労働環境下でその人々を働かせることを容認できるだろうか。
 想定される反論は、「原発作業員は人数に限りがあるのだから、線量限度を引き上げてでも彼らに働いてもらわなくてはならない」というものである。しかし、多くの人々がそう考えているうちは、おそらくこの問題(原発の冷温停止・汚染水の閉じ込め)は解決しない。なぜなら、その考えによれば、多くの人にとって「別の世界」の問題だからである。作業員全員が線量限度を越え、「劣悪な条件下で作業員を働かせることが人道上、問題なのではないか」という議論が出てきたときに、原子炉を安全に停止させるという重大問題が、はじめて「彼ら」の問題ではなく、「私たち」の問題として自覚されるのだろう。働く人がいなくなっても、原発を止めるという課題は存在し続けるからである。そうなったら、みんなでどうするかを考えるしかない。

 その日が来る前に…と考えるのは、私だけだろうか。

posted by あるじ at 19:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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